九成宮という鏡 — どこへ行っても、ついてくる自分と向き合う

最近の臨書を通じて感じたことを、少し綴ってみたいと思います。

削ぎ落とされた「結晶」に向き合う

楷書の極致といわれる「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうのれいせんのめい)。 欧陽詢(おうようじゅん)が北魏の厳しい骨格、二王(王羲之・王献之)の呼吸、そして隋唐初期の法度を学び尽くし、余分なものを削ぎ落とした末に到達した「結晶」です。 一つの型に拠るのではなく、多くの古典を身体に通し、疑い、磨き上げた果てに残ったもの。だからこそ、あれほど厳格でありながら、静かな生命感を宿しているのだと思います。

どこへ行っても、自分からは逃げられない

実際に臨書していると、九成宮は恐ろしいほどに「自分自身」を映し出す鏡になります。 場所を変えても、環境を変えても、自分という存在からは一生逃げることができません。どこへ行っても、自分は自分としてついてくる。

だからこそ、九成宮を何度も書くのです。 昨日見えなかったものが、今日、筆を運ぶ瞬間に初めて見えることがある。 その時々の身体の状態、集中、あるいは拭いきれない執着や迷い……。 ほんの僅かな心の揺れが、誤魔化しようのない線となって現れます。

修行とは、余分なものが落ちていく過程

仏教でいう「修行」とは、何かを新しく付け加えることではなく、余分なものが自然に落ちていく過程だといわれます。 私にとっての臨書もまた、上手くなるための練習ではなく、自我や思い込みが削がれていく時間。何度重ねても「完成」という感覚はなく、ただ、その都度、剥き出しの自分がそこに現れるだけなのです。

一生背中に置いておく「基準」

九成宮は、いつか克服すべき課題ではなく、一生背中に置いておくべき「基準」のような古典。 これからも完成を求めるのではなく、九成宮という鏡を通じて、ついて回る自分自身と静かに対話を続けていければと思っています。

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