書道を35年続けていても、ふとした瞬間に自分の「書」の幼さに気づかされることがあります。
先日、成田山書道美術館で松井如流の隷書作品を目にした際、改めて古典を学ぶことの重要さを突きつけられた気がしました。
基礎を固めた先にある、臨書への扉
書道を習い始めると、まずは楷書から入ります。入筆は45度、止め、跳ね、払い——こうした基本点画をしっかり体で覚え、練習を積み重ねる時期は、自分の書の土台を作る大切な期間です。
しかし、基本をある程度身につけた後に、さらなる表現の幅を広げていくために欠かせないのが「古典の臨書」です。自分だけの癖で書くのではなく、歴史に裏打ちされた古典に触れることで、書はより深く、豊かなものへと変わっていきます。
飽きさせない「等間隔」の美
成田山書道美術館で松井如流の隷書を見て、まず驚かされるのはその字配りの妙です。一見すると、字間が完璧に等間隔で整列しています。しかし、じっと眺めていても全く飽きることがありません。
それは、等間隔という制約の中に、一文字一文字の微妙な筆圧の変化や、墨の潤渇が、計算を超えた生命感として宿っているからです。
如流はかつて、こんな趣旨のことを語っていたと記憶しています——「古典を学ぶことは、過去をなぞることではない。自分の中に眠る新しい生命を呼び覚ますことだ」。その言葉の通り、如流は漢代の隷書の厳格なルールを体得した上で、そこに現代の息吹を吹き込んでいました。
出典は定かではありませんが、この言葉が記憶に残っているのは、自分自身が「そうだな」と感じたからだと思います。長く残っている言葉というのは、誰かの「そうだな」が積み重なって残ってきたもの。そう考えると、古典の重みと少し似ているかもしれません。
古人と対話し続けること
自分流の筆致だけで書いていると、どうしても表現がパターン化し、底が浅くなってしまいます。如流は晩年まで古典の研究を続け、古人と対話することで、常に自らの書を更新し続けました。
如流の作品が、等間隔であっても機械的にならずに美しいのは、木簡や北魏の石碑など膨大な古典の臨書を通じて「線の質」という根幹を徹底的に鍛え上げていたからです。楷書で学んだ基礎が盤石であるからこそ、その先の臨書によって、見る人を飽きさせない自由な表現が生まれる。
今回、如流の隷書から学んだのは「型があるからこそ、自由になれる」という逆説です。等間隔に配置するという型を守りながら、その内側に無限の表情を込める。それは王羲之の「蘭亭序」のような行書の世界にも通じる、書道の奥深さだと思います。
35年経っても、古典は常に新しい
35年経っても、古典は常に新しい顔を見せてくれます。楷書で培った基礎を大切にしながら、如流のあの「飽きさせない字配り」をいつか自分の筆先からも生み出せるよう、今日もお手本に向き合いたいと思います。