書道を35年続けていても、ふとした瞬間に自分の「書」の幼さに気づかされることがあります。先日、成田山書道美術館で松井如流の隷書作品を目にした際、私は改めて古典を学ぶことの重要さを突きつけられたような気がしました。
1. 基礎を固めた先にある「臨書」への扉
書道を習い始めると、まずは楷書から入ります。入筆は45度、止め、跳ね、払い……。こうした基本点画をしっかり体で覚え、練習を積み重ねる時期は、いわば「自分というシステム」の土台を作る大切なフェーズです。
しかし、基本をマスターした後に、さらなる表現の幅を広げていくために欠かせないのが「古典の臨書」です。自分だけの癖で書くのではなく、歴史に裏打ちされた古典に触れることで、書はより深く、豊かなものへと変化していきます。
2. 飽きさせない「等間隔」の魔法
成田山書道美術館に収蔵されている松井如流の隷書を見て、まず驚かされるのはその字配りの妙です。 一見すると、字間が完璧に等間隔で整列しており、まるで緻密に設計されたインフラの構造美を思わせます。しかし、じっと眺めていても全く飽きることがありません。
それは、等間隔という制約の中に、一文字一文字の微妙な筆圧の変化や、墨の潤渇が、計算を超えた「生命感」として宿っているからです。
「古典を学ぶことは、過去をなぞることではない。自分の中に眠る新しい生命を呼び覚ますことだ」 (松井如流)
如流はこの言葉通り、漢代の隷書の厳格なルールを体得した上で、そこに現代の息吹を吹き込んでいました。
3. 古典という「カーネル」を知る重要性
ITエンジニアとしてLinuxに触れていると、システムが安定して動くためには、核となる「カーネル」がいかに重要かを痛感します。書における古典も、まさにこのカーネル(根幹)と同じです。
如流の作品が、等間隔であっても機械的にならずに美しいのは、彼が木簡や北魏の石碑など、膨大な古典の臨書を通じて「線の質」という根幹を徹底的に鍛え上げていたからです。 楷書で学んだ「45度の入筆」といった基礎が盤石であるからこそ、その先の臨書によって、見る人を飽きさせない自由な表現が可能になるのです。
4. 独りよがりを捨て、古人と対話する
私たちが自分流の筆致だけで書いていると、どうしても表現がパターン化し、底が浅くなってしまいます。如流は晩年まで古典の研究を続け、古人と対話することで、常に自らの書を更新し続けました。
今回、如流の隷書から学んだのは、「型があるからこそ、自由になれる」という逆説的な真理です。 等間隔に配置するという「型」を遵守しながらも、その内側に無限の表情を込める。それは、王羲之の「蘭亭の序」のような行書の世界にも通じる、書道の奥深い楽しさです。
5. 結び:成田山で出会った「永遠の基礎」
35年経っても、古典は常に新しい顔を見せてくれます。楷書で培った基礎を大切にしながら、如流のあの「飽きさせない字配り」をいつか自分の筆先からも生み出せるよう、今日もお手本に向き合いたいと思います。
